おひとりさま起業倶楽部

突き抜けた才能はない。何かを極めた訳でもない。だけど、自由に生きるために起業したい!

「私なんて石ころ同然」・・・石ころの正体

「人はみんな、存在しているだけで素晴らしい」とよく言いますよね。きっと、その通りなんだと思うのです。実際、私の周りの大切な人はみんな素晴らしく楽しい人たちばかりですが、もしそうじゃなくても存在してくれてるだけで私は幸せです。これは私だけじゃなく、きっと、みんなそう。そういう気持ちがあるから、意識しなくても、人は自分に対しても「何もできなくても、最悪、存在しているだけでいいんだ」と思えるんだと思うのです。

が、人に対しては「存在してるだけで素晴らしい」と思えるのに、自分に対してはどうしてもそう思えない人もいるんですよね。かつて(今も少し)の私がそうでした。

 

わかりやすい例えかはわかりませんが、人がみんな半貴石だったとします。アメジストだったり、ガーネットだったり、シトリンだったり、オニキスだったり。どれもとてもきれいな半貴石ですよね。でも、紫色に憧れるシトリンは「こんな黄色い自分は嫌だ…」なんて思ってるんですよね。アメジストが大人気だったりすると、「こんな黄色い石なんて、誰も必要としないよね…」と自信をなくすでしょう。「アメジスト好きにとって、シトリンなんて石ころ同然だ…」と。

でもね、「石ころ同然」ということは、本来は石ころよりも価値があるものであることが大前提だと思うんです。だから「自分は本当は石ころより価値がある半貴石なのに、あの人(アメジスト好き)にとっては石ころと同価値しかないんだ」という思考ですよね。自分がアメジストと同じ半貴石であり、同じ価値であることは認めているんです。つまり、石ころの正体は半貴石。これは、ごく普通の、健全な思考だと思うのです。

 

でも、自分に対して「存在しているだけで素晴らしい」と思えない人は、自分が半貴石だという大前提からおかしくなっちゃってる。本当は半貴石なのに、自分はう○こ(失礼)だと思ってるんですね。だから、「自分は石ころ同然」とさえ思えない。うん○(すみせん)だから。石ころにもなれない。

こんな風に、大前提が違ってしまうと、世界が意味するものが全く違ってしまう。

 

そんな時、○んこ(ごめんなさい)に手を差し伸べてくれる人がいたとして。その人をどういう認識で受け入れるか、というのがとても重要になってくるのではないかと思うのです、という話を明日書ければいいな…。